仕事を辞めて海外へ行くことにしました①

こんにちは、inoue(e)です。ひさしぶりのただのブログです。
タイトルのとおり、2025年7月に、25年勤めた仕事(塾)を辞めて海外へ行くことを決めました。40歳を超えた今、何がどうなってそんなことになったのか、この決断に至るまでの経緯を軸に、今までの人生や仕事などについてお話し…というよりも自叙伝のように記録していこうと思います。
まずは、現在無職の私が毎日何をしているのかというと、動画編集、英語の勉強、そして海外へ行く準備、これらが今の生活のほぼすべてです。すべてが「海外へ行く」という夢に向かうための準備です。「夢に向かう」なんて書くと、豊かでわくわくするような時間を過ごしているように見えますが、こんな時でも余裕なく、時間に追われるような生活を送っています。そういう生き方しかできないのかもしれません(笑)(Mr. Childrenの『幻聴』の「決してのんびり暮らすのが嫌いなわけじゃない。でももう一度走り出す…」の部分を初めて聴いたときに妙にしっくりきたのを思い出します)いや、もしかすると、夢を追うってこういうことなのかもしれません。
毎日の生活の中に「ブログを書くこと」は残念ながら含まれていません。本当は毎日書きたいくらい好きなのですが、「しなければならないこと」ではないため、更新頻度がかなり低くなってしまっています…我ながら情けないというか悲しいというか残念というか…。
万が一楽しみにしてくれている稀有な方がおられましたら(笑)、何かコメントでも残してくれたらやりがいになるので、よろしくお願いします。YouTubeやインスタもやっていますが、私にとってそれらはヨソイキの顔です。リアルではありますが、「なんとなくおもしろい」「なんかキラキラしている」、あそこはそんな世界だと思って投稿していますが、こちらは私個人のHPなので、そんなことを気にせずに、思ったこと・感じたことを一般受けしようがしまいが、できるだけありのままに書いています。もし興味を持ってくれたら、応援お願いします(笑)
では本題。
初めて海外に興味を持ったきっかけは、中学生の時に通っていた塾の英語の先生でした。その先生とは波長が合って(と中学生の私は思っていました)、友達のような感覚で接していました(この頃から人との距離感をつかむのが苦手だったようです…今思うと申し訳ない…笑)。私が中学3年生になるときに、その先生が塾を辞めることを聞きました。以前留学していたカナダへ、もう一度留学しに行くというのです。悲しいというよりも、どこか現実味のない話として聞いていた記憶があります。そして、その日から、私の夢のひとつが「カナダへ行くこと」になりました。中学生だったし単純です。好きな先生が行く国、おれもいつか行きたい!それだけで夢になりました(笑)
ただ、その夢はいったん「夢リスト」入りはしたものの、「遠い未来の話」として保管されることになりました。いつか大人になったら、カナダへ行きたいな、くらいの気持ちでした。
時は経ち、30歳(くらい)になりました。塾講師を続けて十余年が経ちましたが、まだ満足のいく授業ができず試行錯誤(暗中模索?)していた頃です。技術は、確かに年々進歩してはいました。しかし、初年度のあの一体感のある授業、情熱だけで生徒とつながったあの授業、それを超えられないもどかしさに悶々とした日々を送っていました。つまり、技術や経験が、情熱を超えられなかった時期です。アツい時期ですね(笑) こうやって当時の気持ちを思い出しながらブログを書いていると、本当にすべての経験が自分には必要だったんだなと思えます。一方プライベートでは、司法書士試験の勉強をしていました。しかし、実際は「していた」なんておこがましくて言えないほどダメダメでした。自分の中では一生懸命でしたが、今思うともっとできることはあった(あり過ぎて何もやっていなかったのとほぼ変わらない)と思える、そんなもったいない生活を送っていました。「一生懸命」がまだまだ「井の中」であることに、この時の私は気づいていなかったのです。
そんなとき、ある友人に「海外行けへんの?」と、塩取って?くらいの感じで言われました。その友人は海外経験が豊富なのですが、その友人から見ると、私の考え方や生き方は、海外で広い経験をすることでもっといいものになる気がする、とのことでした。あの頃リスト入りしたまま放置していた、薄い灰色になった文字が、黒く力を持ち始めた瞬間でした。そうだ、海外へ行こう!
私は、中学生の終わり頃から、ようやく「人並みに」物を考えられるようになっていきました。それまでは何も考えず、なんとなく周りに合わせて、なんとなく楽しかったり悲しかったりと、感情や生まれつき備えたものだけで人生を歩んでいたのですが、いわゆる厨二病とでも言いましょうか、「自分とは何なのか」「なぜ自分は生まれてきたのか」「幸せって何なのか」なんて考えるようになっていきました(今も「厨二病」は継続中です。そして、その頃から、読む小説が赤川次郎から太宰治や芥川龍之介に変わっていきました笑 )。その頃の私は、『人間失格』の葉蔵のように、どうしても「自分の根本」を認めることができませんでした。大袈裟な表現かもしれませんが、問題を抱えて生まれてきたとすら思っていました。しかも、そのまま背伸びをせず身の丈に合った生き方をすれば問題は生じなかったものを、何を勘違いしてか、過去の偉人やマンガの登場人物に憧れて、「自分もあんなふうに生きたい」とよくわからない向上心も同時に持ち合わせていたのです。こうなっては大変です。その大きな溝を埋めるには自分を変えるしかありません。そうやって私はそこからの三十数年を、「自分の良くない性格を変える」ことに尽力する人生を歩むことになりました。
そんな私にとって、海外とは、「自分の根本を認めることを許すための考え方を得られる地」のように思えました。海外には、あまりにも多様な価値観が混在する。これだけいろんな人がいるんだ、おれもおれを認めてもいいじゃないか、そう思えるかもしれない、なんとなく広く、なんとなく前向きな、そんな場所が当事の私にとっての「海外」でした。
とは言うものの、自分の中で、なぜか海外へ行くことが現実味を帯びませんでした。「行きたいのならすぐ行動に移すべきだ」と周りの人によく言われたのを覚えています。行動力や決断力がないように見えたのでしょう。そういうのも確かに理由の一つでしたが…。それよりもなんというか…何か決め手に欠けるというか…自分にとって行く必然性がないというか…。そのときはまだ「行く意味」を自分で掴めないでいました。(今答え合わせのように振り返ると、仕事や将来といった客観的・年齢的な視点に立つと、確かにあの頃行動すべきだったとは思いますが、自分の歩んできたそれからの10年を思うと、主観的には行かなくてよかったと思っています。私にとって仕事や将来の安定性は、仕事や人生の満足度に比べるとそれほど重要な要素ではないからです)。そんなわけで、それからしばらくは、依然として塾の仕事を中心に、これまでと変わらない生活を続けました。これまで通り私の第一の夢は「いい先生になること」でした。ただ、決定的な変化として、「近い未来としての海外」という文字が、もう絶対に消えないリストとして、頭にくっきりと残りました。



